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2021年⑦ 那覇市の古謝さんのお話し

【那覇市の古謝さんのお話し】

(朗読:仲村美涼アナ)

私は1944年、南洋のテニアン島の壕で生まれました。避難豪で生まれたので、ひな子と名づけられました。当時戦争はもう激しくなっていて、私をみごもっていた母は幼い姉3人を連れて、
焼けつくような岩の上を走り続けていました。
ある時母が産気づき、やっと見つけた壕で、私は父の手によって取り上げられました。
しかし私は泣かなかったらしく、母はこの赤ちゃんは生きられないだろうとあきらめていたところ、
同じ壕にいた、石川さんと名乗る日本兵が、ポケットから粉ミルクやお米などを母にくれました。
飯盒の蓋で岩をつたう水をためて粉ミルクを作り、布切れを口に含ませ飲ませると、私は初めて産声をかすかに出して、みな喜んだと聞きました。「泣きやまないなら殺せ」と兵隊に拳銃で脅され、
自ら子供を殺めた親達は、恨めしそうにあまり泣かない私を見つめていたそうです。

満月の夜、母が私にお乳をあげている時、近くで爆弾が爆発して母の左肩を貫通し、右のあごに破片が
刺さりました。出血はひどく、歩くことも難しくなりました。私をおぶっていた10歳の姉が
おんぶひもが食い込んで痛いと泣きだして、母は「もういい。下ろしていきなさい」と姉に言い、
私を捨てる決意をしました。父は私を上着でつつみ、目印になる木の下に私を置いて、雨のように爆弾が降る中逃げ続けました。ようやく隠れられる場所を見つけて一息ついたとき、父は
「ひな子をつれてくる。死ぬときは一緒だ」と言い出し、母が止めても走って行ってしまったそうです。
その話をきいて私を迎えにきてくれた父の偉大さを忘れてはいけないと肝に銘じました。

終戦後の生活も楽ではなく、
戦からは何も生まれないことをしみじみ思います。

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