2021年③ 那覇市の真壁さんのお話し
那覇市の真壁さんのお話し
(朗読:鎌田宏夢アナ)
77年前。当時私は11歳でした。
ラジオでは真珠湾攻撃、シンガポール陥落と戦果がはなやかに報道され、ここ沖縄でも提灯行列のお祭り騒ぎが続いていました。一方、物資は次第に品薄になり「欲しがりません。勝つまでは」の
標語のもとにひたすら忍耐を強いられる日々でした。
上の山国民学校では、授業はほとんど行われず、代わりに防空壕への避難訓練と、
4年生以上は西原の飛行場造りに駆り出されました。僅か9才から11才の子に強いられた強制
労働。しかし「お国のため」と堅く信じる私たちは、辛いながらもやり甲斐を感じていました。
事態が一変したのは、昭和19年10月10日、午前7時頃。
父の使いに出た帰り道だった。異様な轟音に家から飛び出した人々と共に見上げた空は、
何十という飛行機で埋め尽くされていました。
「隠れろ!」と叫ぶ声が聞こえた次の瞬間、頭上から銃弾の雨が降ってきました。道路に当たった弾のヤッキョウが地面で跳ね返りぽんぽんと足に当たり、痛みを感じながらも、
家にたどり着きたい一心で私は必死に走りました。
午前10時。空襲は続き、むしろ激しさを増していました。
警防団員だった父の指示で、母は3才の弟を、5年生の私は生後7ヶ月の妹を背負い、
5才の妹の手を引いて家を出ました。
機銃掃射の雨と爆風に包まれた那覇の町中を私たち親子は、道に倒れている死傷者を跨ぎ、
無我夢中で県庁の防空壕を目指しました。
夕方6時。私たち親子が目にした世界は、一面火の海でした。
那覇の町も上空も夕日も、天も地もとろとろと真っ赤な炎の色に染まっていました。
翌年、私たちは捕虜として米兵に促されるままに山を下りました。
戦争は終わった。しかし、7月の焼けつくような暑さのテント生活では毎日のように
マラリヤ患者が発生し、荼毘の行列ができました。
私も家族もマラリアに何度もかかり、キニーネという特効薬がなければ
こうやって生きていなかったかもしれません。
戦後、平和な世の中が構築される中、生かされた命に感謝しつつ私は生きてきました。
しかし、今なお、飛行機の轟音が響くと、十々空襲の恐怖が蘇り、
胸がキュッと締め付けられます。