芸術
1.美術館
ここ数年全く行けていなかった美術館に行った時のお話です。(大阪の国立国際美術館に行ったのよー!)国立国際美術館は大阪の中心部にあります。国内外問わず観光客の多さに、同じ観光客の私も驚いていました。目的はこの美術館のコレクションもそうでしたが、当時開催中だった「ホーム・スイート・ホーム」という特別展(すでに終了)。「ホーム」には「家」の他にも「故郷」や「祖国」、「家族」という意味があります。新型コロナ禍で「ステイホーム」という言葉が誕生しましたが、そもそも「ホーム」とは一体何なのか。そんな難しそうな問いに、多くの表現者たちが各々のアンサーを提示していました。
(※一部「国立国際美術館『ホーム・スイート・ホーム』参照)
…
実際に皆さんは「ホーム」とは何か、考えたことがありますか?
…
2.「重力の光」
数ある作品群の中で最も印象に残ったのは、石原海(いしはら・うみ)さんの「重力の光」という映像作品です。検索すれば予告編は出てきます。沖縄でも、桜坂劇場で公開していたようです。見た方もいますかね。
(ちなみに石原さんは1993年生まれで、私と2歳しか変わりません。衝撃、かっこいい。)
どんな作品か、以下引用をもとに紹介します。
「教会に集う傷ついた愛すべき罪人である9人が演じるイエス・キリストの十字架と復活を描いた受難劇と、彼らが歩んできた苦難と現在の物語、礼拝の模様や支援活動、それぞれの日常を交差させたドキュメンタリー映画である。」(「映画『重力の光』公式HP参照」)
フィクションとノンフィクションを織り交ぜた構成で、登場人物はすべて「実在する人」であり、元極道、元ホームレス、虐待被害者、生きる意味に悩む人など様々です。彼らは、困窮者を支援する北九州のキリスト教会に集います。過去を見るとやはり苦難の人生を歩んでおり、その一つ一つの経験を彼ら自身がつぶさに語る姿も出てきます。この部分がノンフィクションです。
ではフィクション部分は何かというと、教会に集う彼らがキリストの受難劇を演じる部分です。各々にきちんと役があり、「この人はキリスト」や、「あの人はユダ」などの配役がされています。
◯受難劇とは ※Wikipedia参照
イエス・キリストが十字架刑で殺され受難を受ける過程に関する劇。
役者が演じているわけではないのですが、演者自身に存在する「困窮」や「苦難」というバックグラウンドが、フィクション部分である受難劇に圧倒的な説得力を持たせ「宗教」や「生死」というややニュアンスで認識していた物事を可視化しています。
3.作品と空間
この作品から私が感じたのは、登場人物の誰もが心のどこかで「帰ってもいい場所」を探していたという点です。ある人物は、社会に出るも「この世からいなくなりたい」と考えていました。またある人物は極道の世界で誰かを傷つけていました。家族や周囲の人間から「殺すぞ」と言われ育った人物もいました。劇中では、その誰もが自分の苦しかった過去を、まるで自分の自伝を辿るかのように詳細に話しています。話すというより、こちらに語っています。
上映されている部屋は前方に大きなスクリーンがあり、その2m手前に横長のベンチがあります。ベンチには映像作品の音声が聞こえるヘッドフォンが置いてありました。つまり、「作品を見たい」と思った人はそこに座り、ヘッドフォンをし、じっと映像を鑑賞する必要があります。この空間、何かに似ていると感じた時、すぐに思いついたのが教会=「互いの苦しみを安心して共有し話せる対象が存在する空間」でした。
4.放送
人は自分の考えや意見、過去や経験を真摯に聞いてくれることに快感を覚えます。それは自分への興味の表れだと直感するからです。それはやがて聞いてくれる人への「信頼」に変わり、その人が存在する場所は「安心」に変わります。私はそういう場所を「ホーム」だと思います。「映像作品が放映される美術館の一室」は、「その人たちの体験を聴く場所」であり、映像に映し出される人物たちが鑑賞者に対して「自分の苦しかった過去や経験を話せる場所」、すなわち「ホーム」になっているのかなと、俯瞰して感じました。あの空間全体が「ホーム」を表現していたのかと、そう思ったのです。
ホームには「家族」「故郷」「祖国」という意味があると冒頭でもお伝えしましたが、いずれも共通するのは「安心」という前提です。もちろん人によってそうではないかもしれませんが、広義では人の拠り所になるような温かみのある場所であるはずです。「帰る場所」というより「帰ってもいい場所」くらいのゆとりと「安心」が「ホーム」を「ホーム」たらしめるのかなと、そこは別に家じゃなくても祖国じゃなくてもいいわけです。そういった意味では、私にとって「放送」は「ホーム」です。ラジオでもテレビでも、わざわざ自分の時間を割いて周波数やチャンネルを合わせてくれる人がいます。しかし「放送」は「送りっ放し」と書くように、拭えない「一方通行感」があるのも事実です。私は、自分にとっての「ホーム」が「放送」であるのと同じく誰かにとっても「ホーム」と感じる放送がしたいと、今回の美術館鑑賞を通じて感じました。
すごくかっこいいことを言ってしまい、この先これを上回る流れが思いつかないのでこの辺で失礼します。